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イエスは、偽善的なパリサイ人や律法学者たちから離れてティルスへ行かれました。その地にもイエスの名は知れ渡っていて、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つシリア・フェニキア生まれの女性がイエスの足もとにひれ伏して「娘から悪霊を追い出してください」と言って必死に懇願しました。ところが、イエスの言葉はこれまでになく冷たいもので『まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない』(7:27)というものでした。ここでイエスは、神の国の福音が宣べ伝えられる様子を子どもたち(イスラエル人)と小犬(異邦人)がパン(神の言葉・福音)を受ける順番にたとえて言われました。イエスには深い御心があったのでしょうが、聞く側は何か冷たい感じを受けます。
しかし女性はイエスの言葉にも失望しないで『主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます』(7:28)と答えしました。イエスが与えて下さる恵みは子どもたちが落としたパン屑でさえも、あふれるばかりの豊かな恵みがあると告白しています。必死に娘の癒しを求め、娘の問題を自分の問題として、イエスに助けを求める愛と熱心さがありました。イエスも彼女の信仰を受け入れて下さいます。信仰の熱心さとは、人間が評価するものではなく、神ご自身がどう見て下さるかが重要なのです。
フェニキアの女性の姿から見習いたいことは「イエスの足元にひれ伏した」と言うことです。これこそが礼拝者の姿です。またイエスに向かって「主よ」と呼びかけていることです。礼拝とはイエスを救い主と信じる者たちが「主よ」と崇め賛美し、イエスに栄光をお返しすることです。口語訳聖書には『主よ、お言葉どおりです』とあります。女性はイエスの御前にへりくだってその言葉を受け入れました。異邦人である自分の立場やイエスの御心も、謙遜な心で受け入れた上で、なおひたすら神の恵みと憐れみを願い求めました。たとえパン屑であっても、主の恵み・祝福には変わりない、溢れるばかりの主の恵みと力に期待をしたのです。
そこでイエスは『その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った』(7:29)と言って女性の熱心で謙遜な信仰を喜び、娘を癒して下さいました。この女性も救われ感謝に溢れたことでしょう。私たちもイエスの御前に自分のありのままを謙虚に受け止めて、神に対する信仰の熱心と謙虚をもって大胆に願い求める者になりましょう。