イスラエルの民は、エジプトを出て数日の間に「マラ(苦い水)」から「エリム(祝福の泉)」に導かれる恵みを経験しました(15:22∼)。喉の渇きは癒やされましたが、今度は食物が不足しイスラエルの全会衆がモーセとアロンに呟いたのです(2∼3節)。彼らは呟かないで主に叫び、主に信頼して祈るべきでした。主はご自分の民の叫びを聞かれ(2:23、3:7)、すべての必要を満たされる神であるからでした。
憐れみ深い主はイスラエルの民の呟きさえも聞かれ(7、8、9、12節)、裁きではなく恵みの賜物を天から下されるのです。夕方にはうずらが飛んできて宿営を覆いました。民はうずらの肉を食べることができました。また朝には宿営の周りに露が降り、霜のようなものが地表に積もりました。民はそれを「マナ」と名付け、パンのように食べることができました(民数記11:7∼)。主はマナとうずらとをもって、民の食の必要を十分に満たされたのです(12節)。
イスラエルの民はカナンに入るまでの荒野の生活において、朝ごとにマナを集め食物としていくのですが、そのことには二つの教訓的なメッセージが込められています。一つは、日ごとに主の恵みを慕い求めるということです。民は毎朝一日に食べる分のマナを集めました。太陽が昇ると溶けてしまうので朝集めなければならず、また余分に集めても保存できないので日ごとに新しく集めなければなりませんでした。日ごと・朝ごとに新しく、神の恵みとして日用の糧を受けることを学んだのです。もう一つは、安息日を守るということです。民は日ごとにマナを集めましたが、六日目だけは二倍のマナを集めることが許されました。七日目は「主の聖なる安息日である」からでした(23節、創世記2:2∼)。主は民の肉の必要だけでなく、霊の必要を満たすために安息日(主を礼拝する日)を定められたのです。
イスラエルの民のみならず、私たちは肉体の必要を覚えるとともに、霊的な必要を覚える存在です。それは主によってそのように造られているからです(創世記1:27、2:7、マタイ4:4)。肉の糧と霊の糧の両方を与え、私たちのすべての必要を満たされるのは主お一人だけなのです。主イエス・キリストは、永遠の命を与える食物、天からのマナ、命のパンとなられました(ヨハネ6:35)。主は私たちの叫び、また呟きさえも聞いて下さり、私たちの飢え渇きを満たして下さるのです。ですから、思い煩うのではなく、また呟くのではなく、主に信頼して主の道を歩ませていただきましょう。